2016年6月12日日曜日

16年テーゼ



 2011年に起きた原子力発電所の爆発以後、日本の政治状況は大きく変化した。
 右派勢力自由民主党は、広範な大衆の利権調整政党であることをやめ、宗派的権威主義的性格を強めている。事故当時野党であった自民党は、政権を奪還するためになりふりかまわぬ党派闘争を展開してきた。自民党は、日本会議に代表される新宗教極右勢力を尖兵として、攻撃的なデマゴギーを多用する戦術をとった。また、宗派的な統制技術によって、党内における総裁の専制を実現した。現在の自民党を束ねているのは、ただ権威のみである。自民党総裁・安倍晋三は、政治家であるというよりも宗教的指導者に近いものになっている。
 左派勢力諸政党は、社会民主主義によって連合している。この連合の成立に大きく寄与したのは、日本共産党の方針転換である。日本共産党は階級政党としての性格を弱め、国民的社会民主主義政党になろうとしている。そのことが左派諸政党の協調を促進させた。おそらく日本の議会政治は、極右宗教勢力(自民・公明)と社会民主主義勢力(民進・共産・生活)との対決という構図に収斂していくのだろう。
 そうして日本の議会政治が英米型の二大政党制の構図に向かうなかで、反共産主義のイデオロギーが浸透していく。反共主義は、極右宗教勢力はもちろんのこと、社民主義勢力の隊列のなかで深く浸透していくことになる。

 東京の社会運動は、議会政治への関与を深めるなかで、共産主義を忘却しようとしている。
 なぜか。なぜなら共産主義は、政治に背を向ける人間の思想であるからだ。共産主義は本来的に反政治であり、政治のための動員を拒否する思想だ。
 歴史を振り返ってみよう。1910年代第一次世界大戦のなかで、「戦争そのものに反対する」という前代未聞の行動綱領を提起したのは、共産主義者である。戦争動員を拒否すること、国家の政治に動員されることを拒否すること、それはたんに戦争を終結させたというだけではない。反戦運動は、政治を拒否して生きる人間を発明するという偉業であった。政治的選択についてあれかこれかを論じるのではなく、あれもこれも拒否すること。あれもこれも不正義であると告発し、自明視されている政治構造をくつがえしていくこと。兵役の拒否、労働の停止、商品の不買、学校の封鎖、さまざまな領域で拒否の戦術を発明し実践していくこと。共産主義とは本来そうした思想である。共産主義が「妖怪」と表現されたのは、それが、国家の政治に組み入れることのできない全き他者として登場したからである。

 日本共産党が階級的性格を弱め、共産主義者としての実践を弱めてしまうときに、議会外にある左翼諸派諸分子は、現状を打開する強い任務意識をもつべきである。われわれ議会外左翼は、社民主義勢力の一画に席をとって口ばしをはさもうなどと考えてはならない。そんな政治に未来の展望はないし、われわれの任務はそこにはない。
 極右宗教勢力と社会民主主義勢力がそれぞれの政治を亢進させるなかで、われわれはそのどちらにも背を向ける人々を見出し、その人々の大義を表現しなくてはならない。政治のゲームに参入しなければ何ひとつ実現できないのだと多くが信じようとするときに、われわれは「そうではない」と言わなくてはならない。

 では、なにが。
いま二つの政治勢力のどちらにも動員されない人間は、どこにいるのか。自民党も公明党も民進党も共産党も、あれもこれもすべて不正義であると告発する人々が、いま存在するのか。
 存在する。「放射脳」と呼ばれる人々だ。現代日本の政治を根底で規定し、またそれを覆す力をもっているのは、全国に点在する「放射脳」である。
 「放射脳」は未来を先取りする者である。2011年、東日本に放射性物質が降り注ぐなか、民主党・菅内閣が「ただちに影響はない」と発表したとき、「放射脳」は日本で大量の被曝者が生み出されることを予見した。政府が市民に対して「平常通りの経済活動」を求めたとき、「放射脳」は首都圏が危険な汚染地域になることを予見した。民主党・野田内閣が福島の「復興」を号令したとき、「放射脳」は「復興」政策がぶざまに破綻する姿を予見していた。除染事業と帰還政策が開始されたとき、「放射脳」はそれが失敗に終わることを予見したのである。「放射脳」は未来を予見する。彼らは未来に対する現実的な見通しをもって、移住や食品の不買などの防護対策を実践してきたのである。
 「放射脳」は自力救済を原則とする。彼らはこの点でも先駆的であった。公衆の放射線防護について政府は必要な措置をしてこなかったし、将来もしないだろう。労働組合も農民組合も生活協同組合も、独自の措置をとることなく、厚労省や文科省に判断を委ねてしまうだろう。いくつもの公害事件の歴史が示すとおり、放射能汚染公害は長く放置されることになる。そのことを予見したとき、「放射脳」は、自力救済以外に活路はないと結論づけたのである。
「放射脳」の自力救済原則は、社会のさまざまな領域で中間団体の解体を促した。団体の中核で働いていた人々が、「放射脳」となり、組織に背を向けたのである。このことでもっとも大きな打撃を受けたのは、当時の政権政党であった民主党である。民主党は、放射線防護対策の失敗によって、はっきりと解党過程に入っていった。2012年末の政権交代は、自民党が勝利した結果ではなく、民主党が自壊した結果である。

 民主党が解党する傍らで、日本共産党も分裂を抱えることになった。日本共産党は表面的には勢力を伸ばし、国会の議席を増やしている。それは2011年以後の「反原発運動」を積極的に担ったからである。だが、現在の「反原発運動」は、深刻な分裂を含んだものだ。そこでは、原発再稼働に反対する「反原発派」と、放射能汚染対策を主眼とする「反被曝派」が同居している。福島「復興」政策を支持する社会民主主義者と、福島「復興」政策に反対する「放射脳」とが相乗りをしている。
日本共産党中央は、原発再稼働の反対を表明しつつ、福島「復興」政策を支持している。党中央は明確に「反原発派」である。だがその方針は、党組織の末端まで行き届いているわけではない。党の末端で働く党員たちは、少なからず「反被曝派」であり、「放射脳」になっているからである。
 この分裂をわかりやすく伝えるために、便宜的に一般的に言い換えるなら、それは、世代間の意識の違いと言えるかもしれない。「反原発派」とは、爆発事故が起きる前にやっておくべきだったことを今やりなおそうとする、過去に向き合う運動である。それに対して「反被曝派」は、爆発後に起きる放射能汚染公害と対決する、未来を見据えた行動である。二つの意識の違いは、未来の時間が少なくもっぱら過去を総括しておきたい高齢世代と、未来のある子供を抱えた子育て世代との、時間をめぐる意識の違いであると言える。これはあくまで便宜的で粗雑な表現である。しかし「放射脳」の多くが子育て世代であるという事実は、しっかりと見ておくべきだ。
 いま福島県では、「除染事業」が完了し住民帰還政策がとられている。汚染地帯に戻るのは未来の少ない老人だけである。子育て世代は戻らない。そして、村に住民が戻らないという事実を嘆く老人がいて、その嘆きに共感する老人たちが、全国にいる。それに対して、汚染地帯に子供が戻されなかったことに安堵し、帰還政策を拒否した若い父母に共感する人々が、全国にいる。国民政治、または共同体主義の政治は、人々の「普遍的」な「共感」に訴えることで社会の分裂を隠そうとするものだが、福島県をめぐる「共感」の政治は、うまくいかない。人々の「共感」は、はっきりと分裂している。民主党政権が推し進めた「復興ボランティア」や「新しい公共」政策は、はじめから破綻していた。帰還政策を拒否する子育て世代の親たちを、「放射脳」と罵っても、事態はいっこうに解決しない。そんな愚行は、社会の分裂と敵対をますます明白にするだけなのである。
 日本共産党中央は、国民政党になろうとするために、福島「復興」政策をめぐる分裂と敵対を見ないようにしている。しかし、党に所属する子育て世代は、必ずしもそうではない。「放射脳」がいるのだ。党の末端を担う子育て世代が「放射脳」になるということは、党組織の求心力を弱め、統制を失うことになる。この観点に立てば、日本共産党の勢力伸長はけっして安定したものではない。日本共産党中央が注力する社会民主主義・国民政党化方針は、ただ議席数を増やすだけの「砂上の楼閣」に終わるだろう。

 もういちど共産主義運動の原点を参照してみよう。マルクスが社会変革の主体をプロレタリアートと呼んだとき、それはただたんに経済的に貧しい者を指していたのではない。プロレタリアートはたんに貧しい者ではなく、社会から無視される者である。
誰もが彼女の存在を知っている。しかし、彼女が発言をするための席は用意されず、彼女を代弁する政治家もいない。彼女が政治に参画する回路はなく、そのことが不思議だとは誰も思わない。そのような人々をマルクスはプロレタリアートと呼んだのだ。民主主義の理念が代表制に収斂しようとするときに、代表制があらかじめ排除してしまっている多数者が存在すること、議会政治とは根本的に相容れない他者が存在していることを、プロレタリアートという概念は示しているのである。
 現在の日本社会において、「放射脳」は、誰もが無視しようとする他者である。この点において、「放射脳」はプロレタリアートの概念に近い。
しかしここで問題を短絡して、「放射脳」の政治的代表をつくりあげようなどと考えるべきではない。あるいは善良な社会民主主義者は、「子育て世代の要求を国会へ」と言い出すかもしれない。それは違う。
われわれは先に「子育て世代」という雑な表現をしたが、実際には「放射脳」は子育て世代だけで構成されているのではない。子供のいる者も、子供のいない者もいる。女性も、男性も、トランスセクシュアルの者もいる。「放射脳」は雑多であり、それぞれに特異な者たちだ。それはとりとめなく広がる特異性である。「放射脳」は、あれとこれとこれ、というように社会的属性のタグをつけて集約整理することのできない多数者である。タグを付けることのできない普遍性である。われわれが「子育て世代」という例を出したのは、「放射脳」にタグをつけるためではない。われわれが「子育て世代」と書いたのは、代表制に侵された思考がどれほど多くの者をあっさりと無視してしまうかという事実を示すためである。「子育て世代の親たち」とは、どう考えても少数者ではなく例外的でもない者たちだが、こうした人々の存在をまるごとごっそりと無視することができるのが、代表制の政治なのである。まずはこの事実を確認しておきたい。代表制、議会制、社会民主主義は、人々の要求を集約する役割を自認しつつ、実際には多数者を無視する。したがって、多数者の普遍的要求は、代表制の政治ではない別の方法によって表現されることになる。

 「放射脳」がいまもっとも威力を発揮しているのは、東日本産食品の不買である。政府はこれを「風評被害」と呼ぶ。日本政府が真に恐れるのは、「風評被害」が増殖し、そのことで福島「復興」政策が破綻することである。
たんに政府の失策によって「復興」政策がうまくいかないというのであれば、それは数ある失政の一つにすぎない。しかし「風評被害」によって「復興」政策の実現が阻まれたとなれば、それは政治体制の基盤そのものが転覆されることを意味する。なぜなら「風評被害」とは、あの政策かこの政策かという議会政治の次元で論じられる問題ではなく、技術官僚による政策決定という支配の制度そのものに拒否を突きつけるものだからである。これまで政策決定に関わる技術官僚制は、誰も覆すことのできない強固な制度だと考えられてきた。しかしいまそれは支配体制のもっとも弱い環となっている。日本の技術官僚は、裸の王様である。そのことを日本に暮らす多数が知り、はっきりと拒否する事態になっているのである。
「放射脳」は、「科学者」を自称する技術官僚の権威を覆した。また「放射脳」は、政治による調整や妥協を受け容れない。どのような種類の政治であっても、「放射脳」を統御する権威を実現することはできない。この徹底した反権威主義と非和解的性格が、政府を震撼せしめている力の質である。政府が「風評被害」を恐れるのは、それが政治の全き他者として登場したからである。
 「風評被害」の力によって「復興」政策が破綻するとき、政府の言う「原子力災害」は、「放射能公害事件」へと転化する。そのとき、日本政府、福島県、電力会社、金融機関、地主とブルジョアジーは、テーブルの下で互いの足を蹴り合うことになる。国家の技術官僚と金融資本は、地主、ブルジョアジー、地方的権力の諸勢力と、深刻な内部対立を引き起こす。この内部闘争は、議会政治の場では表現されない。議会政治はその闘争の結果を反映するのみである。
 われわれは議会政治の場で、技術官僚を言い負かしてやろうなどと考える必要はない。そんなまわりくどい方法をとるのではなく、ただ「風評被害」を実践し増殖させればよいのである。いま必要なのは、誰かを代弁することでも代弁する政治家をつくりあげることでもなく、おのおのが直接に「風評被害」を実践することである。
 われわれは「風評被害」を増殖させなければならない。より強く、より速く、「風評被害」の力を亢進させなければならない。かつてロシア帝政下の共産主義者は、戦争協力を拒否し祖国を敗北させようと言った。彼らは、ロシア人民が生きるためには祖国を敗北させることが必要だと考えたのだ。いまわれわれは20世紀のロシア人にならうべきである。被曝政策に抗してすこやかに生きるために、祖国を敗北させなくてはならない。祖国が、みんながまんをして放射性物質を食ってくれと言うのなら、そんな祖国は滅ぼすのみだ。

名古屋共産主義研究会